第一章 佐藤栄作 総裁時代
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 池田勇人首相の病気辞任を受けて、昭和三十九年十一月九日に、佐藤栄作氏が第五代総裁に就任し、佐藤内閣が誕生した。佐藤内閣は、政治姿勢としては「寛容と調和」、政策的には「人間尊重と社会開発」をスローガンに、七年八カ月にわたって政権を担当し、わが国政権史上最長記録を樹立した。

 その間、民族的な悲願だった「沖縄の祖国復帰」という歴史的大偉業を達成した。佐藤内閣時代の特色は、国内的には、池田時代に引き続き高度経済成長を定着させて、自由世界第二位の「経済大国」に発展させる一方、公害、環境破壊、過密、過疎などのひずみの発生や、国民の価値観の多様化、「多党化時代」の本格的到来等に対して、新しい政治的な対応を迫られた時代だった。
 また国際的にも、ベトナム戦争の長期化による米国の威信の低下と国際情勢の流動化、世界の各国が予測もしなかったニクソン米大統領の訪中声明、ドルの衰弱を背景としたドル防衛の非常措置の発表等、相次ぐ「ニクソン・ショック」に見舞われるなど、さまざまな外交的試練に直面せざるを得ない時期でもあった。池田内閣とともに自民党全盛期の政治を担当し、数々の偉業を達成した佐藤内閣であったが、最大の政治目標だった沖縄復帰の歴史的記念式典を終えた後、第六十八回通常国会の閉会を待って、佐藤首相は総理・総裁辞任の意思を表明し、内外から惜しまれながら、七年八カ月という記録的な長期政権の座を去ったのであった。

 一九六〇年~一九七〇年代には、日本共産党と日本社会党が共闘し、左翼勢力を中心とした「革新自治体」が数多く生まれた。特に昭和四十二年には社共両党推薦の美濃部亮吉氏が東京都知事に当選している。一方、自民党は同年行われた第三十一回衆議院議員総選挙で得票率五十%を割っている。

 こうした厳しい政治状況の中、自民党学生部は産声をあげた。昭和四十二年、自由民主党東京都連学生部は設立され、大西英男氏(第一期、東京都議)が初代学生部長を務めた。学生部長は後の委員長にあたる役職である。

 学生部はもともと左翼に対抗するための保守勢力というような位置付けであった。その当時は、得体の知れない団体がいくつも自民党学生部を名乗り活動していた。大西英男氏が、それを現在のようなしっかりした党の組織へと組みかえたのである。

 初期の活動は選挙遊説が中心だった。全国区の場合、宣伝カーが三台まで認められていたので、関東、東日本、西日本の三つの班に分け、各地を巡った。
 約四十人ほどの部員で、しばしば渋谷の中華料理屋で宴会がもたれた。その際、地元の暴力団に因縁をつけられ、組員との間で大乱闘を演じたこともあった。また、酔っ払って車を運転中、中央分離帯に乗り上げて底に穴があいたこともあったという。若気の至りであろうか。

 八木洋治氏(第三期、都連事務局長)が委員長の時代、世は七十年安保の只中であり、学生運動の全盛期を迎えていた。

 高度成長時代のため、就職口には不自由せず、政治には無関心な層が多い一方、左翼過激派の活動家が多く、長期化する保守政権に対する不満が爆発した結果、学生運動が引き起こされたのである。

 自民党学生部も昭和四十五年ごろに学生運動に参入した。左右両翼の全体主義から「日本の民主主義」を守るためである。
 当時の学生にとっては、安保条約に反対することが一種の流行のようになっていた。そのため、部員は自民党学生部を名乗ることにも慎重にならざるをえなかった。大学の教授も左翼が多く、学内で表立った活動をすることはできなかった。活動は命がけである。しかし、部員たちの正義感は留まることはなかった。衝突を回避するため、政治家たちが直接街頭で訴えるのを自粛した時期、学生部は安保条約の必要性を訴えることにした。
 まず、富士山麓にあった自民党の施設で、講師から演説の特訓を受けた。そして、党大型宣伝車「あかつき」(現在、存在する「あさかぜ号」より大きい宣伝車)で駅頭や街頭に繰り出した。その勇気ある行動は、市民の大きな支持を勝ち得たのであった。
 あるとき、演説の最中に投石があって党の宣伝車に傷がつくことがあった。八木氏は詫び状を書いたが、当時の都連の高木事務局長は「学生部員のけがを心配しているだけだ」と言ってなぐさめたという。

 このほかに選挙の手伝いもした。ほとんどの大学は荒廃し、勉強できる環境ではなかったので、学生たちは専らアルバイトに勤しんだ。竹内捷美氏(第三期、荒川区議)が通っていた大東文化大学では最初機動隊を学内に入れるかどうかを議論していたが、学生運動が最後の方になると、機動隊を入れるのが当たり前になっていた。
 学生の大多数は家賃一万円前後の部屋で暮らしていた。中には四千五百円で物置のような場所を借りて住んでいる者もいた。当時はマージャンがはやっており、鈴木一光氏(第六期、東京都議)も仲間と共に熱中していたそうだ。

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