第二章 田中角栄 総裁時代
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 佐藤長期安定政権のあとをついで、昭和四十七年七月五日、田中角栄氏が歴代総裁中最も若い五十四歳で第六代総裁に選出され、田中新内閣がスタートした。
 田中首相は、複雑化の様相を強めてきた内外情勢に果断に対処するため、「決断と実行の政治」を政治運営の基本スローガンに掲げた。
 また政策的には、急激な高度成長によってもたらされた過密・過疎、公害、環境破壊等を克服して、日本全国をつり合いのとれた、豊かな国土にすることを目ざした「日本列島改造論」という大構想を国民に提示して、新内閣の組閣と同時に、きわめて意欲的に田中政治の展開に取り組んだのだった。内政面での最重要課題は、インフレとの闘いだった。昭和四十六年以来のドル・ショック対策としての大幅金融緩和と、財政規模の積極的拡大は、輸出の予想以上の好調と景気の活況、大幅賃上げ等と相まって過剰流動性を生じ、これに将来の好況を見こしての仮需要も加わって、総需要が急増した。これが引き金となって物価が急騰し、土地投機による地価の急上昇とあわせて、物価問題が最大の政治問題となった。
 このため昭和四十八年、「買占め売惜しみ防止法」を制定する一方、公共事業の繰り延べ、数次にわたる公定歩合の引き上げ等による厳しい総需要抑制政策に転じた。
 これら一連の物価抑制策が、ようやく効を奏しようとした矢先の同年十月、突如として第四次中東戦争が突発し、石油危機に発展した。
 その結果、世界経済全体が大混乱に陥り、わが国でも、先行き不安による思惑買いの横行、生活物資の買占め、売惜しみ、狂乱物価といった経済混乱、社会不安の中に追いこまれるにいたったのだった。
 そこで同年十二月、「石油需給適正化法」「国民生活安定緊急措置法」の緊急立法を行い、石油需給の国家的規制と、重要生活物資の価格の法的規制に乗り出すとともに、引き続き徹底した緊縮政策を実施した。これらの諸措置は、自由民主党が基本政策とする自由経済体制に、臨時・緊急かつ必要最小限とはいえ、統制経済的な手法をとりいれたものであり、自由経済を原則としつつも、これに「社会的公正」の確保を優先させた点で歴史的な意義をもつものだった。

 石油危機による狂乱物価、社会的混乱のさなかに行われた昭和四十九年七月の参議院議員通常選挙では、それまでの与野党議席差二十四名は七名に激減し、いわゆる「与野党伯仲時代」を迎えるにいたった。
 この参議院選挙の結果が引き金となって、党内外から田中内閣や党執行部に対する批判が高まった。このことをうけ、自民党政治のより新しい展開を願って、潔く退陣の決意を表明した。田中首相は人心掌握の天才だった。
 鈴木聖二氏(第十期、埼玉県議)はインタビューの中で語った。「一つだけ学生部にいてよかったことがある。田中角栄と一緒に動けたこと。功罪いろいろあってもあの人の人間性と政治家としての魅力というのは類稀。後にも先にもあんな人はいない。あの人と一緒に動けたことには学生部に感謝している―。」それによると、田中角栄は演説でたいてい同じ話をしたが、いつ聞いても新鮮だったという。話の型は完全に決まっている。まず笑わせる。笑わせて聴衆の緊張感をときほぐすのである。聴衆は最初緊張している。こいつは危険なのか、安全なのか、聞いてもよいのか、身構えるのである。笑わせると、聴衆の心が開かれて自分のペースに引き込むことができる。次に泣かせる。人は泣くときに一番弱くなるからである。そして最後の盛り上げは怒りである。アジテーション演説は笑いで終わってはならない。最後が怒りでなければならない。泣いていた聴衆は怒りに転じるから興奮する。田中角栄は感情移入がうまかった。聴衆の心をつかんで自由自在に操った。鈴木聖二氏は田中角栄の演説に魅せられて熱心に聞いた。歌舞伎で、自分の好きな俳優が演じる演目は同じでも何度も見に行くようなものである。国民運動本部に入って田中首相とどこまでも一緒にいたいと考えていたこともあったらしい。

 学生運動はすでに下火だった。川口大三郎君リンチ殺人事件がマスコミで報じられた。あまりに行き過ぎた運動に、世間の理解は得られなくなっていった。世間は学生運動にうんざりしていたのである。一般学生には学生運動の反動から、無気力・無関心・無責任のいわゆる三無主義の者が多かった。
 鈴木聖二氏も学生運動にはうんざりしていた。彼の高校は学生運動に毒されていた。授業中に先生が反体制的な発言ばかりしていたので、不快感を抱き、授業で先生と議論した。
 すると、彼に賛同する者が次第に集まり、保守の一派を形成するまでになった。早稲田大学に入学すると、今度は授業中に左翼のオルグに遭った。左派系のサークルに嫌気がさした彼は、自分に合う政治サークルを探すことにした。
 政治経済学部の三号館には保守系のサークルの部室が並んでいるので、仲間と共にそこへ行った。そのとき、後の委員長の川崎和則氏(第八代)に声をかけられたのがきっかけで学生部に入ることになった。
 学生部はどんな活動をしたいかによってニつのグループに分かれていた。アカデミックに政策を勉強する「勉強派」と街宣車を使って演説会を開く「行動派」である。早稲田組は勉強派だった。執行部はしばらくのあいだ他の大学が占めていた。早稲田は劣勢だった。しかし、川崎和則氏が劣勢ながら委員長に選ばれると、日村豊彦氏(第九代、兵庫県議)、鈴木聖二氏(第十代)、岩崎晴彦氏(第十一代)と三代続けて早大が委員長職を独占した。

 北方領土の見学に行った。上野から各駅停車である。非常に長い時間がかかった。特に北海道では三〇分くらい平気で停止する。途中、根室の婦人団体と演説会をするなどして地域の生の声を聞いた。

 鈴木氏が委員長の時代は、勉強と行動のバランスをとって活動した。カリキュラムは自分たちで作る。勉強チームをいくつか作って、外交はこのチーム、防衛はこのチームというふうに決めて、二ヶ月くらい勉強してプレゼンをする。勉強だけでも駄目だ。青臭い政治論はよそがするから、学生部としては、国民とのあいだで政治がどう動くのか、何を話せば大人の足を止めて聞いてもらえるのか、それをこそ知りたい。
 日村氏の代から街宣車「あさかぜ」を借りて街頭遊説をするようになった。勉強会、練習会をした上で、遊説班を作って、渋谷ハチ公、新宿アルタ前、高田馬場などに出て行った。一人あたりの持ち時間は五分から十分程度である。やっているうちに立ち止まって聞いてくれる人もでてきた。遊説は十人くらいでやった。
 誰のときにたくさんの人が聞いてくれて、誰のときには聞いてくれないかを、全員が知ることができた。仲間同士でお互いの批評や分析をした。
 すると、誰がどれだけの人に聞いてもらえるか競争するのがおもしろくなって、最初の趣旨とはそれて、人に興味をもって聞かせる方法を研究することになった。最初は小手先の技術について学んだが、そうではなく、自分が関心をもって一生懸命調べたことを情熱をもって伝えるときに一番人をひきつけられるのだと分かった。ふりだしに戻って勉強した。新聞を読んで賛否両論を調べた。どんどんおもしろくなって現実の政治に口を出したくなった。有権者に関心があるのは十年後に何をするかではなく、今現在の問題なのである。ここでは自民党批判もあったという。党からはお叱りをくらったこともあったが、「自民党はウイングの広い政党でいろいろな意見をもった人間が集まっている。いちいち学生の言うことに目くじらをたてるものではない」と冷静に反論した。
 鈴木氏曰く、「田中角栄は善悪を超越した存在」である。角栄を始めとして、当時は規格外の政治家がいた。鈴木氏らが葛飾の柴又でビラを配布していたとき、田中派のK氏から五千円のヤツメウナギをごちそうになったという楽しい思い出もあった。金脈批判、金権批判により政治の透明性が重要視された。しかし、いろんな規制でがんじがらめになったため、規格にはずれた人間を許さない社会になってしまった。また、金権批判と共に、政治は悪いという概念が若者を中心にはびこる時代に突入してしまったのである。

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