第三章 三木武夫、福田赳夫、大平正芳 総裁時代
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 田中内閣のあわただしい退陣のあとをうけて、昭和四十九年十二月四日、三木武夫氏が第七代総裁に選ばれ、「クリーン内閣」といわれた三木新内閣が誕生した。

 三木内閣は、「対話と協調」を基本姿勢に、「清潔で偽りのない政治」「インフレ下における社会的公正の確保」「不況の克服」「党近代化」の実現などを政治目標に掲げて出発した。

 まず内政面でみると、三木内閣の二年間を貫いて、「政治浄化」と「社会的公正の実現」こそが、終始変わらぬ基本的な政治基調だった。野党の強い反対を押しきって公職選挙法と政治資金規正法の画期的な大改正をなしとげたことは、三木内閣時代を象徴する輝かしい業績だったといえるだろう。
 さらに、苦しい財政事情のもとで、インフレ下の社会的公正を確保しようという三木首相の強い要望から、福祉年金の六割引き上げ、恩給、遺族年金の三十八%引き上げなどの「福祉優先の政治」を貫いた。

 こうして、「社会的公正の実現」や「福祉優先」に意欲を燃やした三木内閣であったが、この内閣に課せられたもう一つの重大な政策課題は、「不況の克服」である。
 田中前内閣以来の総需要抑制政策は、予期以上の実効をあげ、五十年度末には、消費者物価上昇率を八・六%に押さえこむことに成功し、狂乱物価も沈静の方向に進んだが、不況を背景に深刻な雇用不安に発展したのであった。

 このため三木内閣および自由民主党は、それまでの総需要抑制政策から一転、財政主導型の総需要創出政策に転換することとして、五十年度大型補正予算を編成し、引き続き五十一年度予算の編成においても、公債依存度三十%という大胆な公債政策の活用によって、総額二十四兆二千九百億円という空前の大型積極予算を組み、景気の早期回復を目ざした。

 ところが、昭和五十一年ニ月、ロッキード事件が明らかになった。この事件を契機として、政情は不安定化し、また党内的にも、国会運営に対する対応の仕方や、景気回復予算および財政関係法案の成立遅延などをめぐって、三木内閣および党執行部に対する批判が次第に強まった。

 さらに昭和五十一年六月には、党所属の六名の国会議員が離党し、「新自由クラブ」を結成するにいたった。このように政情は動揺し続け、昭和五十一年十二月、任期満了による衆議院議員総選挙が行われたが、ロッキード事件に対する国民の批判は厳しく、自由民主党は、保守系無所属当選者を含めて、過半数をわずかに上回る二百六十一議席を獲得するにとどまった。

 このような総選挙の結果は、三木内閣および自由民主党にとって、大きく期待に反するものであったため、責任を痛感した三木首相は、自由民主党再生への願いをこめつつ、十二月十七日、総理・総裁の座を退いた。

 三木内閣退陣のあとをうけて、昭和五十一年十二月ニ十三日、福田赳夫氏が第八代総裁に就任し、党再生と不況脱出への衆望を担って、福田新内閣が誕生した。

 福田内閣は、「協調と連帯」を基本姿勢に、内政では「景気の浮揚」と「雇用の安定」、外交では「世界の中の日本」の理念に立った積極的な国際協調、党再生のためには「出直し的改革」の目標を掲げて、その達成に力強く前進を続けた。

 このうち、まず内政面で福田時代を彩る特色は、何といっても、景気の早期回復と雇用不安の解消をめざした積極財政の強力な推進と、歴代内閣の残した重要懸案処理にかけた非常な情熱だった。

 このため福田首相は、三木前内閣時代にロッキード事件という不幸な事件によって、政治が停滞した反省の上に立ち、就任直後から党内外に「さあ働こう」と呼びかけて、きわめて意欲的に政治に取り組んだのである。

 福田経済政策の成果は着々とあがり、経済成長は先進国中第一位を占め、貿易は驚異的に増進し、物価は主要国の中で最も安定し、昭和五十三年の消費者物価の上昇率は、三・八%と十五年来の最低にとどまったのである。

 その間、予想外の輸出の伸びと経常国際収支の黒字の大幅増大にともなって、国際通商摩擦が拡大し、また輸出の急増とアメリカの貿易赤字の増大は急激な円高を招き、引き続く積極政策によって、昭和五十三年度後半から内需は見通し以上に拡大し、企業収益も好転するなど、石油危機以来五年ぶりに、日本経済が回復基調に向かったのは偉大な功績である。

 福田時代を画する最大の外交的業績は、何といっても昭和五十三年八月の日中平和友好条約の調印だった。同年十月には、トウショウヘイ・中国副首相がみずから来日して批准書の交換が行われ、これをもって、日中間の最大懸案は日中共同声明後、六年越しで最終的に解決されたわけである。

 五十一年末総選挙の結果に象徴される政治不信の高まりと、党勢の長期停滞に対して、かつてない厳しい自己反省を行い、昭和五十ニ年一月の党大会および四月の臨時党大会で、党改革について真剣な討議を重ねた末、「開かれた国民政党」への脱皮を目ざして、(一)全党員・党友参加による総裁選挙の断行、(二)党の組織力と財政基盤強化のための自由国民会議の結成、(三)派閥の弊害除去と広報活動の強化充実などの具体的な党改革案を決定、その実行を国民に公約した。

 この結果、国民の自由民主党に対する信頼と期待は高まり、昭和五十三年十二月末現在で、党員数は百四十万五千九百九十五名、党友である自由国民会議の会員数は十九万百六十五名に達し、党を支える下部組織は、結党以来二十三年におよぶ党の歴史を通じて空前の飛躍的充実をみるに至り、自由民主党は、「開かれた国民政党」の理想に向かって、画期的な前進をとげたのであった。

 しかも忘れ得ないのは、歴史的な功績をあげた福田総裁が、党員・党友参加による総裁候補決定選挙の結果、十一月ニ十七日、一位に大平正芳氏が選ばれたことが確定すると同時に、ただちに愛党の至情から、総裁決定選挙への出馬辞退の意思を表明し、二年間にわたる総理・総裁の座を自らおりたことである。

 この福田総裁のさわやかな出処進退は、福田内閣時代の不滅の業績とともに、長く後世の歴史に残ったのである。

 福田内閣退陣のあと、自由民主党史上、画期的な全党員・党友参加による総裁予備選挙の洗礼をうけて、昭和五十三年十二月一日、大平正芳氏が第九代総裁に選任され、党内外の多大な期待を担って大平新内閣が登場した。

 新政権の発足に際して、ますます厳しさを加える内外情勢と、多難な政治運営の実情をふまえて、「信頼と合意の政治」「国民と苦楽を共にする政治」を基本姿勢に掲げて国民の協力を要請した。国内情勢では、第一次石油危機の深刻な不況はようやく乗りきったものの、その後遺症としての財政の不健全化が残り、昭和五十四年度予算の公債依存度は三十九・六%に達し、財政事情はもはやこれ以上の放置を許されぬまでに悪化していた。加えて、引き続く第二次石油危機の到来は、エネルギー制約の長期化と深刻化を告げ、日本経済と国民生活の将来に大きな不安を投げかけるにいたった。

 大平内閣の発足当時、景気は着実に上昇過程にあったものの、その半面、構造不況産業を中心になお百二十万人前後の完全失業者があり、雇用不安の解消は最優先の急務だった。

 このため、昭和五十四年に雇用対策を最重点政策として取りあげ、総額一兆七千億円の予算を投じて、その飛躍的充実をはかったのである。

 その効果は大きく、翌昭和五十五年には景気回復による雇用増と相まって、雇用情勢は急速に改善された。第一次、第二次石油危機を体験した大平内閣および自由民主党は、深刻化しつつある石油制約を克服し、国民経済と国民生活を維持、充実できるだけのエネルギー供給を長期かつ安定的に確保することこそ、最重要の政治課題であるとの認識に立って、昭和五十五年に画期的なエネルギー対策を講じた。

 大平首相は、首相就任の直後から、財政再建への軌道をしき、わが国と国民生活の「たしかな未来」への道を切りひらくことこそが、自らの政権に課せられた最大の政治使命であるとの自覚に徹していた。

 このため、昭和五十四年に日本経済が本格的な景気の上昇軌道に乗ったのを見さだめると、同年十月の衆議院議員総選挙では、大胆にも「新たな負担」の是非を国民に問い、また昭和五十五年度予算では、徹底的な歳入・歳出の見直し等によって、公債発行額を一兆円減額し、財政の公債依存度を三十三・五%に引き下げるなど、懸命の努力を続けた。

 こうした大平首相の悲願は、その非運の死によって第一歩を踏み出しただけに終わったが、そのあくなき努力によって、財政再建の必要性については、与野党を問わず広く国民的合意が形成されるにいたった。

 次いで外交に目を転じると、何といっても特筆すべき業績としては、昭和五十四年六月、東京で開かれた先進国首脳会議(「東京サミット」)の画期的成功である。

 大平内閣および自由民主党は、アジアで初めて開かれたこの首脳会議を成功させるため全力を尽くした。
 とくに大平首相は、議長として会議全体をリードし、歴史的な「東京宣言」をまとめあげて、見事な外交的成果をおさめた。大平時代の外交で最も注目すべき功績は、イラン革命にともなう米大使館不法占拠事件、アフガニスタンへのソ連の武力介入問題等、にわかに高まった国際緊張材料に対する毅然たる政策選択であった。

 これら国際社会の基本秩序を脅かす不法行為に対しては、「それがたとえわが国にとって犠牲をともなうものであっても、避けてはならない」との大平首相の不動の信念のもとに、ココムの輸出規制の強化等の経済制裁、モスクワ五輪不参加などを、他国に先がけて率先して実行したのがそれである。

 この余勢をかって、大平内閣および自由民主党は、政局安定をめざして同年十月、解散・総選挙に打って出たが、不幸にして投票日当日の悪天候と投票率の異常な低下、選挙運動期間中に続発した官公庁、各種公的機関の綱紀弛緩の表面化などの悪条件が重なったことが起因して、獲得議席は二百四十八、保守系無所属の追加公認を加えても二百五十八議席という、不本意な結果に終わったのであった。

 しかしながら、政局安定の悲願に燃える大平首相は、これに屈することなく翌昭和五十五年月、たまたま日本社会党の党利・党略的な大平内閣不信任案が提出された機会をとらえて、「衆・参両院同日選挙」の実施という非常手段に訴えて、国民の信を問う勇断を下した。
 そして、自らこの歴史的な政治決戦の陣頭に立ち、「不安定な野党連合政権か安定した自民党政権か」の選択を国民に迫って、国政安定への熱情をほとばしらせた。

 だが、非運にも戦いなかばにして病に倒れ、六月十ニ日未明、勝利の日を見ることなく急逝したのであった。しかし大平首相は、死の瞬間まで、自由民主党の圧勝と政局の安定を願い続け、二度にわたり病床から、全党員・党友の決起を訴えるメッセージを発表するなど、不屈の闘志を燃やし続けたのだ。

 このような大平首相の燃えるような愛党心と、国政安定にかけた情熱は、党員・党友のみならず広く国民一般の胸を打ち、わが党の選挙体制は、かつてない結束と盛り上がりぶりを示したのだった。
 かくて開票の結果は、衆議院二百八十四議席、参議院六十九議席という文字どおりの圧勝となり、その後の保守系無所属の追加公認と参議院の非改選議員を加えた現有議席では、衆議院二百八十六議席、参議院百三十六議席と、衆・参両院にわたり安定過半数の体制を確立できたのである。
 かくして大平時代は終わったが、自民党再興と政局安定に果たした偉大な功績は、不滅の光芒を放つとともに、政治指導者として歴史的大転換期の苦悩を一身に担い、国政に殉じたその壮烈な生きざまは、わが国戦後政治史に深く刻みこまれることであろう。


 さて、当時の学生はお金がなかった。部屋は四畳半の間借アパートである。まずアパートの共通ドアを開けてそれから自分の部屋のドアを開けるという構造だ。
 テレビはあっても電話はなかった。クーラーはあっても冷蔵庫はなかった。裕福な人は裕福だったが、久保肇氏(第十四期)はとりわけ貧しかった。地方出身で親からの仕送りはなく、主に新聞配達をして働きながら学んでいた。他の学生の生活より十年くらいずれていたともいう。彼の場合、先輩の岩崎晴彦氏(第十一代)が学生部の委員長で、彼を通して自民党学生部の会合に参加するようになったのが入部のきっかけであった。久保氏が大学に入るときに内ゲバ事件の残滓のようなものがあったくらいで、学生運動は影を潜めていた。

 当時の学生は冷めていた。自分たちの意見を表明することをよしとしない世代である。彼らは、何がよいかわからない自分たちが投票することによって国家を間違った方向へ導いてしまうことを恐れて政治に関ろうとしなかった。
 彼らにしてみれば、自民党の支持を表明し、選挙の手伝いをする学生部員の姿は特異に映ったであろう。久保氏は反論した。なぜ自民党がよいかわかってから支持するのでは投票できる人はいない。
 国会議員の中には、頭がよくて見識が深い人がいるではないか。そういう人を支持すればよい。国民の政治的判断力を疑問視し、政治に関わるべきではないとするのは主権在民の否定である。むしろ君主政治の考えに近い。立派な人が立派なことを考えて立派なことをやれば社会はよくなるという発想である。日本は民主主義の国なのだから、一生懸命考えて投票すべきであり、その努力を決して怠ってはならない、と。

 学生部の中では政治に対する意識は高かったが、それとは別にジレンマもあった。久保氏が入部した当初、学生部は明治大学のメンバーが多かったが、彼らに仲間割れが起きた。最初はニ派に分かれてどちらが主導権をとるかを争った。
 ところが、途中で「今の自民党に満足できるか」という話になった。自民党の組織に入って自民党のために働くということに対する疑問を持っていたのである。明治大学のある一派はこう主張した。「自民党に入っているのは便宜上のことである。学生部に入ることでためになる経験ができたり、話が聞いてもらえる。だから入ったというだけで、自民党のために献身する気はさらさらない。それなのに職員は我々を扱き使うからけしからん。」彼らの議論は、「今の自民党に満足できないなら、学生部である必要はない」という結論に至った。それで、ほとんどの部員がやめてしまった。残ったのは、久保氏と両派の抗争に関わらなかった原沢豊行氏と角幸一氏(第十四期)の三人だけだった。先輩たちの手前、解散するわけにもいかない。党都連からよく電話のある角氏が事務局長を担当した。久保氏と原沢氏は就職活動があるので、お互い話し合った結果、久保委員長、原沢副委員長の人事が決まった。

 当時幹事長はなく、事務局長が実質幹事長の役割も担った。少しずつ仲間を増やして、六月の衆・参同時選挙のときには十五人くらいになった。
 選挙後、もっと仲間を増やそうということになり、議員会館にある自民党の国会議員の事務所に出入りする学生を紹介してもらった。最終的には三十人になって引き継いだ。久保氏の転機になった活動は、昭和五十四年の都知事選で選挙事務所に手伝いに行ったことである。

 それから本格的に活動に参加するようになり、大学よりも学生部に行くことの方が多くなった。また、近藤喜彦委員長(第十二代)のもと、訪韓団が組まれた。北と激しく対立していた韓国を訪問して北の脅威を体験し、要人たちと会うことを目的としたものである。国会の事務総長にあたる方、文部大臣にあたる方、韓国文化を研究している歴史家の方々と会った。韓国は日本の経済援助を受けてめきめきと力をつけていた時期である。
 その様子を知るために造船所を見学した。さらに、北が韓国に工作員を送るための地下トンネルのうち、発見されたばかりの第二トンネルを見学した。北の標的になるので、派手な服装はしないで、カーキ色の服とヘルメットをかぶって視察した。国際共産主義と自由民主主義の対立の最前線を目の当たりにしたのである。
 訪韓団には十四、五名参加した。この中には後に国会議員になった者もいる。普段の活動は週一回か月ニ回である。放談会を開いて好きなことをしゃべり、飲み会で天下国家を論じる。基本的にしゃべってばかりいた。その中で、「学生部はなぜ都連にしかないのか。全国に学生部運動を広げよう」という企画がなされた。それの橋頭堡となったのが、全国学生研修会である。現在でも年に一回開催されている。全国学生研修会に来た学生を集めて、船田元学生部長との面談の席を設けた。
 勉強会には、いろんな先生方を呼んで話を聞き、自分たちの想いをぶつけた。すると、「そうだな、そうだな」と聞いて下さりながらも、「そうは言うけども、政治はそんなに甘くない」とたしなめられるのが常であった。特にためになった勉強会は、防衛問題に関するものである。自衛隊法を作った加藤陽三氏が生きておられたので、勉強会に招いた。当時の自衛隊法にいかに欠陥があるかが分かった。有事にあたってどのように国家の意思を決めるか、多くの未定の部分を残していたのである。部員ではない人も集めてニ十人くらいで聞いた。加藤氏の話を聞いて政策に目覚めた。
 それまでは時事放談という感じで、雑駁な議論が多かったのだが、まじめに政治の現実に直面したのだ。そして最大の活動はやはり選挙である。久保氏は語る。「いろんな人がいて、いろんな思惑をもっていて、なおかつ一人の候補者を当選するために一致団結するさまには感動すら覚えた。青春だった」と。

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