第五章 中曽根康弘、竹下 登、宇野宗佑 総裁時代
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 その後の総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て第十一代自民党総裁となった中曽根康弘氏が、第七十二代内閣総理大臣に就任した。

 さらなる「行革断行」と「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根首相は、就任直後の昭和五十八年一月十一日、電撃にソウルを訪問し、昭和四十八年の金大日誘拐事件から悪化したままであった日韓関係の正常化に踏み込んだ。

 当時の世界情勢は、昭和五十四年のソ連のアフガニスタン侵攻によって始まった新冷戦の真っ只中であった。「強いアメリカの復活」を訴えて当選したレーガン大統領は西側同盟の引き締めに乗り出しており、これが日本とアメリカを急接近させる要因となった。

 この国際情勢下で中曽根首相は、米国のレーガン大統領と「ロン」「ヤス」と呼び合うほど緊密な関係を築いた事実は特筆すべき事実であろう。そして有名な「不沈空母」発言や「日米は運命共同体」発言、および三海峡封鎖発言によりアメリカとの信頼関係を回復し、デタント以降、曖昧になりつつあった日米同盟、日米安全保障体制を強化した。

 こうして中曽根首相は西側同盟の一員としての日本国の明確な立ち位置を表明し、日米韓の密接な同盟関係を基礎にした八十年代の東アジアの戦略的枠組みの姿が規定されることになった。

 内政では、民営化の推進を積極的に行った。赤字の国鉄、電電公社、専売公社など三公社を民営化することは長年の悲願でもあった。

 これらは「三公社の再建は国家的課題であり、政府は総力を結集してこれに取り組む」という声明通りに断行され、昭和六十年に電電公社はNTTとして、専売公社はJTとして、国鉄は昭和六十二年にJRとしてそれぞれ民営化された。

 中曽根政権は売上税を導入しようとした事を「公約違反」として追及を受けたことをきっかけに昭和六十二年の統一地方選で敗北した。

 しかし、売上税撤回後は支持率を復活させ、同年十一月に余力を残し退任した。また中曽根首相は昭和五十七年から昭和六十二年まで我が国の総理の座にあり、歴代第四位という長期政権の記録を築いたのであった。

 昭和六十年のプラザ合意をきっかけに始まったとされる未曾有の好景気は、国内外の投機熱を加速させ、特に日本株と日本の土地への投機が盛んになった。

 「土地の値段は下がらない」という「土地神話」に支えられて、転売目的の土地も増加し、一層地価は高騰した。

 当時の東京二十三区の地価でアメリカ全土が購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保にさらに貸し付けを拡大するという好景気によって、国内のあらゆる資産価格は高騰した。

 昭和六十二年になると、この現象は日本の経済全体に波及し、景気は一過性のものではないという楽観論が世間を支配した。

 世はバブル景気の真っ只中にあったのである。のちにこの状況は、後世が「泡の経済」と呼んだように当然崩壊するのであるが、日本が、日本人がエネルギーを発揮していた輝かしい時代でもあった事に異論はないであろう。

 このように日本中が活気に満ち溢れていた昭和六十二年十一月、ニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の三氏の中から、中曽根元首相は竹下氏を後継に指名する。

 第十二代自民党総裁となった竹下登氏が第七十四代内閣総理大臣に就任した。昭和六十三年、地域のさらなる活性化を図るべく、「自ら考え自ら行う地域づくり事業」政策を打ち出す。これは「ふるさと創生事業」とも呼ばれ、全国の市町村に対し補助金を交付したものであった。

 すなわち、地方でできることはできるだけ地方に任せる「小さな政府」のあり方を目指すという、後の地方分権改革の先鞭をつける画期的な政策であった。

 さらに税制改革関連法案を採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税の導入に成功した。

 昭和六十三年は、今日に繋がる改革断行推進の年であったといえよう。その後、竹下内閣はリクルート事件をきっかけとしてはじまった政界不信により内閣を総辞職した。昭和六十四年一月七日に昭和天皇が崩御され、今上天皇が皇位を継承された。

 新しい年号は「平成」となった。こうして竹下内閣は、昭和・平成の二つの時代をまたぐ内閣になった。

 平成元年五月三十一日、竹下内閣の総辞職を受け、外相であった宇野宗佑氏が自民党両院議員総会で「起立多数」という極めて珍しい形で第十三代自民党総裁に選出された。

 六月三日には宇野内閣が発足し、政治不信を払拭する事に力を注いだ。しかし、個人的な問題に対してマスコミがきわめてネガティブなキャンペーンを張ったことが原因となり、宇野内閣は僅か六十九日の短命政権で終ってしまった。

 同年、六月四日に起こった天安門事件という重大事件も我々の記憶に新しい。中華人民共和国は、民主化に関連する諸問題から第一次改革開放ブームという世相が変化しつつあり、天安門事件の発生により、民主化への道は一時的に閉ざされた。

 これによる西側諸国の反発も、中華人民共和国の情勢に大きく響いた。アメリカは、ユーフォリアを経て金融行政が迷走気味になり、これらの信用問題に発展しつつあった。経常収支が均衡に向かう中で国内経済は低迷し、失業増大や記録的財政赤字につながりつつあった。

 世に言う「双子の赤字」の到来である。ソ連は、アメリカとの軍拡競争に敗れた上、アフガニスタン侵攻による負担の増大、東欧衛星諸国の離反、経済政策の決定的な失敗、これらが重なり崩壊の瀬戸際にあった。

 ヨーロッパは、深刻な高失業と東欧民主化による混乱に見舞われていた。

 冷戦の末期、バブルの絶頂期。我が党、日本、世界。全てが混沌の中に身をおとしつつも、新たな秩序形成が行われていた時代であったといえよう。

 さて、この当時はまだ青田買いが禁止されており、就職活動といえば大学四年がメインであった。

 よって現在のように大学三年での就職活動はあまり活発ではなかった。就職活動は完全に学生の売り手市場であり、大学四年の十一月頃に新卒採用が解禁となり、企業は学生の囲い込みのために、どこかに一泊旅行に行くなどということもあったようである。

 そんな中、自民党学生部に集まった人材であるが、ゼミやサークルの先輩から誘われてというのが多かったようである。また、インターネットがない時代であったため、政治に興味を持った学生が直接党本部まで行き、学生部を紹介されるといったこともあった。

 学生運動は下火の頃であり、大学に入ったら遊ぶというのが大半の学生の意識であった。ちょうどディスコやダンパがはやった時期である。

 当然好景気のため、公務員試験に向けて勉強する学生というのは少なく、大半は民間企業志望であった。活動としてはミーティングを定期的に開き、それに基づいて活動していたが、やはり選挙の時はその手伝いが中心となった。

 時には東京都管轄内の島にも選挙のお手伝いに行った。自由民主党東京都連第二十五回定期大会資料(昭和六十三年五月二十一日)によると、「学生部は、真摯な態度で活動しているが、本年は特に部員を増強し、研修会(三ヶ月に一回)・勉強会(毎週一回)等を開催し、他の学生団体との交流をはかり、日本の将来を担う人材を養成する。」とある。

 部員を増やすことはいつの時代も常に目標となることであるが、やはり思想の問題や勉強の忙しさなどで、なかなか困難であった。

 しかし、そのなかでも積極的に交流は行われ、学生の動向に関する情報の共有、人脈の拡大、などのために活用された。

 自由新報を芝郵便局まで持って行くという、週一回の決まったお手伝いの仕事もあった。これは学生部員だけではなく、その他の一般党員の方々との共同作業であり、毎週木曜日の午前中に行われ、たいてい学生部から二名程度参加していた。

 それ以外にも活動としてはいろいろあり、恒例のものは当番・交代制で、それ以外は連携・分担で行われた。ミーティング兼勉強会では、学校行事の確認など、個々の部員のスケジュールを把握し、それをもとに委員長からの方針説明がなされた。

 そして時には企画の可否や勉強会形式で学生間の論議や講演会などが行われた。当時は円卓会議という言葉がはやっていたように、テーブルを囲んでの勉強会がよく行われたようである。

 学生は関心をもった事項や、人とのつながりがあれば、学生部の行事あるいは作業にも参加するというかたちであった。遊説は度胸をつけるのにとても役立ち、場数をこなすことが学生部員に求められた。

 北方領土返還の遊説などが青年部と合同で行われた。選挙でのポスター貼り等は当然行われた。朝まで生テレビなどの観覧の枠が学生部員に与えられたこともあった。当時は現在のように、メールや携帯電話はなく、電話やFAXが情報伝達の主な手段であった。そのため、連絡網も作成されていた。またパソコン等もほとんど普及しておらず、FAXも当然走り書きであった。そのため、伝達内容の確認には特に留意し、一度の電話でどこまで用が済ませられるかということが大事であった。まだ卒業論文などもパソコンで書くことがめずらしかった時代である。

以下に当時の具体的な活動スケジュールを示す。

昭和六十三年(一九八八年)

一月二十八日 研修 中央政治大学院 十八時~十九時三十分

二月四日 研修 中央政治大学院 十八時~十九時三十分 

二月七日 北方領土集会 (品川区の池上で遊説)

二月十七日 研修 中央政治大学院 十八時~十九時三十分

二月二十四日 研修 中央政治大学院 十八時~十九時三十分

三月二日 研修 中央政治大学院 一八時~十九時三十分

四月 勧誘

四月十五日 親睦会(本部)十八時~

五月 勉強会・遊説

五月二十日 手伝い 佐藤隆氏パーティー

六月 リクレーション

七月 勉強会・遊説

八月 研修会

九月 研修会・遊説

十月 勉強会

十月八日~十月十日 夏季研修(箱根)

十一月 リクレーション

十一月二十一日 ミーティング(本部)十八時~

十二月 忘年会


平成元年(一九八九年)

二月十八日 手伝 青年部大会 十時三十分~

四月十二日  学生部ミーティング 十七時三十分~

四月十三日 手伝 当番 新聞発送 九時~十二時

四月十七日 手伝 都連大会 十時~二十一時

四月十九日 手伝 川崎市連 十六時三十分~二十一時

四月二十日 手伝当番 新聞発送

四月二十八日 見学 アジアフォーラム(於 プレスセンター) 十八時~

四月二十九日 参加 「朝まで生テレビ」生収録 一時~六時三十分

五月一日 自民夕食会(於 都連) 十四時

五月十五日 手伝 都連(於 吉祥寺)

五月 手伝 参議院選挙

九月三日 参加 北方領土集会

十一月十一日 手伝 街頭演説

十一月十四日 主催 講演会(於 一〇一)十七時集合 十八時解散 

末広亭(新宿)

遊説手伝募集 ~五月十九日→(延長)継続

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