第六章 海部俊樹、宮澤喜一、河野洋平 総裁時代
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 宇野総理が第十五回参議院議員通常選挙の敗北により辞任し、行われた総裁選挙で海部俊樹氏が林義郎、石原慎太郎両氏を破り新総裁に就任を果たした。

 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、国会の首班指名において衆参のねじれが生じることとなった。

 自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹氏、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党の土井たか子氏を指名した。

 日本国憲法第六十七条第二項の規定に基づき、両院協議会にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院の優越により、衆議院にて指名された海部氏が内閣総理大臣に就任した。

 また、民間初の女性閣僚として高原須美子氏を起用した。海部氏はクリーンな政治家・三木武夫氏を尊敬していたといわれ、三木氏の清新なイメージを受け継いで颯爽と登場した。

 海部総裁に寄せられる期待感は大きかった。この当時は東西冷戦の末期であり、東欧諸国では、次々と民主化へと移行していくという時期であった。

 そんな中で、当時の国際情勢を象徴する出来事は、平成元年十一月の、ベルリンの壁崩壊である。

 そしてさらに同年十二月には、当時のアメリカ合衆国のブッシュ大統領と、ソ連のゴルバチョフ書記長のマルタでの歴史的な会談がおこなわれ、戦後四十年間に渡って続いた東西冷戦は、ここに終結した。

 その後ソ連は、平成三年十二月に崩壊し、国際社会は二十一世紀に向け、新たな時代を迎えようとしていた。

 平成二年二月におこなわれた衆議院総選挙で、わが党は、二百七十五議席と、安定多数を確保した。

 またこの年の六月には、礼宮文仁親王がご成婚され、国内は祝福ムード一色となった。

 しかし、同年八月、イラクによるクウェート侵攻をきっかけとして、湾岸戦争が勃発することとなった。こうして、再び日本に、世界の中での立ち位置が問われる事になった。アメリカを中心とする多国籍軍に対して、どのような形で支援をおこなうかが課題となり、我が国は多国籍軍に対し、合計百三十億ドルという多額の資金援助をおこなった。

 そして停戦した平成三年四月には、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣するという大仕事を行ったのであった。

 その年の十月、海部首相は退陣を表明し、総裁選を経て、宮澤喜一総裁が誕生した。宮澤内閣では、以前から課題となっていたPKO協力法を成立させ、これに基づき、自衛隊をカンボジアへと派遣するなど、国際社会における我が国の役割を明確にすることとなった。

 平成四年の参議院議員通常選挙では、我が党は六十八議席と勝利したが、翌平成五年には、宮澤首相が掲げた政治改革への対応をめぐって党内での意見の収拾がつかず、国会会期末に野党が提出した内閣不信任案が可決されてしまうという事態になった。

 宮澤首相はただちに解散・総選挙に打って出、二百二十三議席を確保したものの、結果的に過半数割れし、我が党は史上初めて下野する事となった。

 宮澤首相は退陣直前に、政権交代による国政の混乱を回避するため、次期首相である細川護熙氏(日本新党)と軽井沢で会談をおこなった。

 宮澤総裁の後継として、河野洋平氏が新総裁に選ばれ、我が党は野党として、新たな船出をすることとなった。

 しかし、細川連立政権は、所詮は非自民政権樹立のための、単なる数の寄せ集めに過ぎず、細川首相自らの金銭スキャンダルを我が党が徹底的に追及したことにより、わずか九ヶ月で崩壊することとなった。

 その後、連立与党は、平成六年四月に羽田孜氏を担いで新内閣を発足したが、連立与党の足並みの乱れは、誰の目にも明らかであり、日本社会党、新党さきがけも、政権を離脱したため、羽田内閣は少数与党となり、二ヶ月で退陣した。

 我が党は政権復帰を目指し、新党さきがけと共に、五十五年体制下において長年ライバルであった日本社会党の村山富市委員長を首相に担ぐという苦渋の決断をとりながらも、一年弱で政権へと復帰することとなった。

 国内では、村山内閣が発足して半年ほど経った、平成七年一月十七日には阪神淡路大震災が発生し、六千人以上の尊い命が犠牲となり、また、この年には、オウム真理教による一連の事件が発生し、国内に向けて、安全、安心というものが問われることとなった。

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