第七章 橋本龍太郎、小渕恵三、森 喜朗 総裁時代
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 当時の国内外情勢は、平成八年十二月に起こったペルー日本大使公邸占拠事件などの重大事件が多発した時代であった。

 そんな中、平成七年九月に橋本龍太郎総裁が誕生したが、依然として総理の座は、連立を組む日本社会党の村山富市委員長にあり、橋本総裁は通産大臣兼副総理として村山内閣を支える立場にあった。

 年が明けて平成八年一月に、村山首相の辞意を受け、第八十二代内閣総理大臣に橋本龍太郎総裁が指名され、わが党は約二年半ぶりに、念願であった総理の座を奪還した。

 橋本内閣は、行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、金融改革、教育改革、経済構造改革の、いわゆる「六大改革」を掲げ、バブル崩壊後の日本経済の建て直しに本格的に着手した。

 同時に、中央省庁の再編に本格的に取りかかるため、大蔵省における名称の変更や、財政と金融の切り離しなどを目指した。

 さらに財政改革の一環として、消費税を三パーセントから五パーセントへと引き上げた。

 また橋本首相は外交の面においても、アメリカ合衆国から沖縄県の普天間基地の移設に関する合意や、ロシアのエリツィン大統領との間で、平和条約締結に向けた「川奈合意」を取り付けるなど、優れた外交手段を発揮した。

 当時、学生部委員長を務めていた、学生部OBの海老原秀樹氏(第二十九期)は、当時を振り返ってこのように語っている。

「当時、自民党総裁は総理大臣ではなかった。当時の自民党は、日本社会党、新党さきがけと連立を組み、社会党委員長の村山富市氏が首相という時代でした。これ以前の細川・羽田内閣時代は野党でありましたから、首班をよそに任せても与党に戻りたいという熱烈な願望の結果であります。若い我々は、社会主義者との連立に多少不甲斐なさを感じました。ところが、『出来ることはやってみる』という言葉の大切さを感じたのは、平成八年一月のことです。橋本龍太郎内閣が発足し、念願であった『総理・総裁』が我が党に戻ってまいりました。政治のダイナミズムを感じた瞬間でした」

 その頃の学生部の活動は、月に数回、国会議員や、各省庁の官僚を多数招いてテーマ別の勉強会を実施していた。

 また、十月二十一日の学徒出陣壮行会の日には、靖国神社参拝を行い、さらには都連の街宣車を貸してもらい、飯田橋や市ヶ谷などの都内主要駅で、部員による街頭演説コンクールや、党全国学生交流会(NSA)と合同で、党本部ホールに学生五百人を集めて橋本総裁と語り合う「ライブ・ポリティクス」を開催したりと、様々な活動に積極的に取り組んでいた。

 ある学生部OBは当時の学生部の雰囲気について、「学生部には、色のある先輩や面白い人が多く、そのような中で、弁論の力を磨き、人間的派閥抗争を学べた」と語っている。

 当時の学生は、ノンポリであるということがかっこいいという風潮であり、「思想を語る」ことを「思想に溺れている」という感覚が普通であった。

 また、「失われた十年」と呼ばれた経済の停滞期でもあり、多くの学生は日本の将来に不安を感じていたが、当時の学生部には多種多様な人材が集まり、部員達は祖国を愛し信じる気持ちと、明日の日本への希望に満ち溢れていた。

 平成十年の参議院議員通常選挙において我が党は、改選前の五十九議席から四十四議席へと議席数を減らし、橋本総裁は参院選の結果に対する責任を取る形で辞意を表明し、その後の総裁選には小渕恵三、梶山静六、小泉純一郎の三氏が出馬し、結果小渕新総裁が誕生した。

 発足当時の小渕内閣は、参議院が与野党逆転していたこともあり、当初の政権基盤は不安定であったが、当時の自由党、公明党との連立によって政権基盤の安定を図ることが出来た。

 また、小渕内閣は、周辺事態法などの日米ガイドライン関連法や、通信傍受法、国旗国歌法などと次々に成立させ、次第に広く国民の支持を集めていった。

 その後、平成十二年四月の小渕総裁の緊急入院を受けて、森喜朗総裁が誕生した。

 森内閣は、その年に亡くなった小渕首相の悲願であった九州・沖縄サミットを成功させ、さらに中央省庁の再編により、それまでの一府二十二省庁が一府十二省庁に再編された。

 この頃の一般的な学生の雰囲気は、政治離れが一層進み、政治の世界に入ろうとすることがめずらしいというような時代に入っていた。

 この当時の学生部は、いわゆる「二・八の法則」といった感じであった。すなわち、学生部員のうち約二割の熱心な部員達によって運営されていたのである。

 また、議員を目指す者もいて、意識レベルは高かったという。深谷将平委員長(第二十八代)時代に幹事長を務めた小野正晃氏は、「普通の学生ではありえないような人との出会い、経験ができる場所が、自民党学生部の良い所」であると語っている。

 また深谷委員長の下、学生部規約を改正し、学生部員資格を夜間学部生や専門学校生にまで大きく広げるなど学生部改革にも取り組んだ。

 衆議院議員総選挙の後、深谷氏は委員長の職を辞し、その際に後継の委員長の指名を行った。また、この時期は平成十年の参院選、十一年の東京都知事選、統一地方選、そして十二年の衆院選と重要な選挙が多くあり、学生部員も我が党の候補者の勝利に向けて全力で支援を行った。

 時には数十名以上の動員をかけ、二ヶ月から三ヶ月の間、朝六時から夜は二十五時までの間、へとへとになりながらも選挙戦を戦ったこともあるという。

 当時は議員インターンシップのようなものはなかった時代であり、このように選挙戦を手伝うことは新鮮な体験であった。

 ほかに当時の学生部の活動では、議員を招いての勉強会を行ったり、陸上自衛隊富士総合火力演習や原子力発電所などへの視察を多数実施し、現場主義に徹底した活動を行っていた。

 なお、学生部のホームページに記録されていた平成十二年当時の一年間の活動は、次の通りである。

二月九日 桜井新政調会長代理を囲む会(党本部)

三月四日 第三十四回都連青年部大会(党本部)

三月六日 研修旅行(鬼怒川)

三月二十四日 衆議院東京第三選挙区 内藤尚候補遊説応援

三月三十日 戸井田徹衆議院議員(学生部OB)との懇談(衆議院第二議員会館)

四月五日 森喜朗内閣発足

六月十三日 第四十二回衆議院議員総選挙

七月十九日 国会見学会

八月二十一日 研修旅行

八月二十二日 東海原発、旧動燃施設視察

九月九日 三宅島災害救援募金

九月十日 陸上自衛隊富士合同火力演習視察

十月四日 下村博文党青年局長との懇談会(衆議院第二議員会館)

十二月十五日 活動報告会(党本部)

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